2006年05月28日
Yes 音楽性と活動の変遷 【〜現在】/イエス
8人ツアーで人気復調のピークを迎えたイエスだったが、それと同時に一連の騒動に嫌気が差したのはメンバーを含めた関係者だけでなく、多くのファンも同じ思いであった。 傑作と前評判の高かった「トーク」も、既にメイン・ストリームで闘えるだけのものを失っていた。この時のメンバー構成(アンダーソン、スクワイア、ケイ、ホワイト、ラビン)を進言したのは新たに所属したヴィクトリー・レーベルのフィル・カーソン(彼は以前アトランティック・レコードに所属し、イエスを初期からサポートしていた)だったのだが、その判断はABWHとユニオン・イエスの成功の理由を見誤っていたと思われる。その後ヴィクトリーを離れスティーヴ・ハウとリック・ウェイクマンが復帰、黄金期復活と謳った「キーズ・トゥ・アセンション〜イエス完全復活(1996年)」、「キーズ・トゥ・アセンション2(1997年)」は、ライヴとスタジオ作品を混在させたプロジェクトで、スタジオ・テイクに往年の雰囲気が多少感じられるものの、修正を施されたライヴ・テイクはいまひとつの内容であった。
定石通り、アルバム発表後にツアーが予定されたが、マネージメントの変更を検討していためスケジュールがなかなか決まらず、当時マン島に在住していたウェイクマンがスケジュールを知ったのは、ソロ・ツアーのために渡米した3月であり、既にソロ活動のスケジュールが決められた後だった。ウェイクマンはそうしたことに嫌気が差し、スクワイアやハウの引き止めもむなしく脱退してしまう。5月に入り、ウェイクマン脱退が正式に発表され、ツアーはキャンセルとなった。
後釜のキーボード・プレイヤーを探していたイエスは、自ら売り込みにやって来たロシア出身のイゴール・コロシェフを、オーデションの末採用した。そして再度組まれた10月からのツアーに合わせて、クリス・スクワイアのソロ・プロジェクトが急遽イエスとして制作される事となり、正式メンバーとなったビリー・シャーウッドが最終ミックスダウンを行った「オープン・ユア・アイズ(1997年)」を完成させた。この作品は、「ロンリー・ハート」時のような衝撃こそないものの、「キーズ・トゥ・アセンション1、2」で感じられる、姿勢としての衰えを払拭するには充分な活力がある。とはいえ、元々がスクワイアとシャーウッドのプロジェクトであったため、イエスとして出した事に疑問を投げかける声もある。
イエスとしての本領を発揮したのは、次作、名プロデューサー、ブルース・フェアバーンの遺作となった「ラダー(1999年)」であろう。70年代のイディオムである20分強の構築された曲をフルに演奏して絶頂へと導くのではなく、全11曲の小作品をドラマチックに配置するスタイルのトータル・アルバムとなっている。
イエス恒例の人事異動というべきか、その後若手2人が脱退することになる。ビリー・シャーウッドは自分の活動に専念するためで、かねてからの計画であり、円満脱退と伝えられる。一方イゴール・コロシェフの脱退は、公式見解はなかったものの、ツアー中に二名の女性警備員へ暴行事件(実際にはキスを迫ったり、首筋を噛んだりといったセクハラ的行為)を起こしたことによる解雇である。コロシェフの脱退はHPにおいてもしばらく伝えられなかったことからも、イエスにとって忌避すべき事件であったのだろう。ただ、コロシェフの名誉のために付け加えれば、本件は当事者間の和解が成立し、不起訴(無罪)処分となったことを記しておく。
キーボード不在を好機と捉えたイエスは、以前から暖めていた企画であるオーケストラとの競演を柱とした作品「マグニフィケイション(2001年)」を発表する。オーケストラ・サウンドのミックスと味付けはゴージャスだが、基本的にはわかり易いポピュラーな作品で、アンダーソンとスクワイアの音楽的嗜好のルーツであるアメリカンポップスやビートルズの曲想を感じさせる好作に仕上がっている。
マグニフィケイション・ツアーを終えたイエスは、ウェイクマンの復帰を発表した。実に4回目の復帰劇である。真偽は不明だが一説によると、曲作りには参加しないツアーのみの契約であるといわれている。その後イエスは、2002年のクラシック・ツアー、2003年のフルサークル・ツアー、2004年の35周年記念ツアーと大規模なツアーを行うものの、スタジオ・レコーディングの新作を出していない。
2005年現在、イエスは「今年はツアーをやりたくない」というアンダーソンの意向を受けて、グループとしての活動を停止し、ソロ活動に専念している。雑誌のインタビューによるホワイトの発言によると、2006年春には活動を再開する予定とのことである。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
定石通り、アルバム発表後にツアーが予定されたが、マネージメントの変更を検討していためスケジュールがなかなか決まらず、当時マン島に在住していたウェイクマンがスケジュールを知ったのは、ソロ・ツアーのために渡米した3月であり、既にソロ活動のスケジュールが決められた後だった。ウェイクマンはそうしたことに嫌気が差し、スクワイアやハウの引き止めもむなしく脱退してしまう。5月に入り、ウェイクマン脱退が正式に発表され、ツアーはキャンセルとなった。
後釜のキーボード・プレイヤーを探していたイエスは、自ら売り込みにやって来たロシア出身のイゴール・コロシェフを、オーデションの末採用した。そして再度組まれた10月からのツアーに合わせて、クリス・スクワイアのソロ・プロジェクトが急遽イエスとして制作される事となり、正式メンバーとなったビリー・シャーウッドが最終ミックスダウンを行った「オープン・ユア・アイズ(1997年)」を完成させた。この作品は、「ロンリー・ハート」時のような衝撃こそないものの、「キーズ・トゥ・アセンション1、2」で感じられる、姿勢としての衰えを払拭するには充分な活力がある。とはいえ、元々がスクワイアとシャーウッドのプロジェクトであったため、イエスとして出した事に疑問を投げかける声もある。
イエスとしての本領を発揮したのは、次作、名プロデューサー、ブルース・フェアバーンの遺作となった「ラダー(1999年)」であろう。70年代のイディオムである20分強の構築された曲をフルに演奏して絶頂へと導くのではなく、全11曲の小作品をドラマチックに配置するスタイルのトータル・アルバムとなっている。
イエス恒例の人事異動というべきか、その後若手2人が脱退することになる。ビリー・シャーウッドは自分の活動に専念するためで、かねてからの計画であり、円満脱退と伝えられる。一方イゴール・コロシェフの脱退は、公式見解はなかったものの、ツアー中に二名の女性警備員へ暴行事件(実際にはキスを迫ったり、首筋を噛んだりといったセクハラ的行為)を起こしたことによる解雇である。コロシェフの脱退はHPにおいてもしばらく伝えられなかったことからも、イエスにとって忌避すべき事件であったのだろう。ただ、コロシェフの名誉のために付け加えれば、本件は当事者間の和解が成立し、不起訴(無罪)処分となったことを記しておく。
キーボード不在を好機と捉えたイエスは、以前から暖めていた企画であるオーケストラとの競演を柱とした作品「マグニフィケイション(2001年)」を発表する。オーケストラ・サウンドのミックスと味付けはゴージャスだが、基本的にはわかり易いポピュラーな作品で、アンダーソンとスクワイアの音楽的嗜好のルーツであるアメリカンポップスやビートルズの曲想を感じさせる好作に仕上がっている。
マグニフィケイション・ツアーを終えたイエスは、ウェイクマンの復帰を発表した。実に4回目の復帰劇である。真偽は不明だが一説によると、曲作りには参加しないツアーのみの契約であるといわれている。その後イエスは、2002年のクラシック・ツアー、2003年のフルサークル・ツアー、2004年の35周年記念ツアーと大規模なツアーを行うものの、スタジオ・レコーディングの新作を出していない。
2005年現在、イエスは「今年はツアーをやりたくない」というアンダーソンの意向を受けて、グループとしての活動を停止し、ソロ活動に専念している。雑誌のインタビューによるホワイトの発言によると、2006年春には活動を再開する予定とのことである。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』